当時の株式会社毎日コミュニケーションズが抱えていた問題とは?
Q. ロゴマーク「MYCOM」を「マイコム」に変更した際、当時の事業部からは反対は無かったのですか?
鳴海 「もちろん、無かったと言えば嘘になります。社内調査をした際に、“ロゴを変えること”に対して、反対の意見を持つ社員の方が多かったんです。特にマネジメント層においてネガティブな意見が強かったですね。何事も使っていく内に愛着が湧いてくるものです。その抵抗や思いも十分理解しつつ、それでも次は、どうしていきたいかに焦点を当てることが大切だと思っていました。」
マッティン 「その通りだと思います。でも、少しでも抵抗がある中で進め続けられることは、すごいことですよね。何か強く突き動かす問題意識が身近にあったのですか?」
鳴海 「そうですね。ロゴを変えないほうがいい、という意見はありながら、社名『毎日コミュニケーションズ』とは別に、普段、社内資料等で使用していたブランドロゴ『MYCOM』に対して、ブランドという自信や認識を強く出していなかったことが明らかだった。だからこそ、反対の意見がありつつも、踏み切ることが出来たのだと思います。」
鳴海 「ブランドという言葉が社内に定着したのは2007年、『マイナビ』とサービス名称を統一して以降のこと。そこから、社員が自社のサービスに対して、自信をもってブランド力を高めようとする意識が自然に生まれ、目指すべき道や“らしさ”の意識の統一ができた。多少の気恥ずかしさを押し殺し、導入当初に「ブランド」を連呼したことは大きかったと思います。以前に比べて格段に組織力が増したと感じました。」
事業の一領域だったマイナビブランドを受け、社名を「株式会社 マイナビ」へ。この“勇気のいる決断”が、認知度調査80%超えを実現した。
Q. 2007年3月にコーポレート・ロゴ「MYCOM」を「マイコミ」に、サービス事業を、「マイナビ」としてサービス・ロゴを発表。その後2011年に社名を「マイナビ」に、サービス・ロゴをマイナーチェンジさせたコーポレート・ロゴを発表されましたが、この経緯についてお聞かせください。
鳴海 「創業以来、『毎日コミュニケーションズ』として皆様に親しまれていた大切な社名でしたが、今後の事業展開やスピード感等をかんがみ、当時最も成長していたマイナビブランドの成功を受けて、社名と一体化したより強い商品とスピード感のある事業展開、また、より高いステージを目指すべく、社名変更を実施することになりました。」
Q. 最初はサービス・ロゴだったマイナビが4年後に社名やコーポレート・ロゴになると想像していましたか?
マッティン 「きっとだれも想像してなかった(笑)。でもこれは、デザイナーとしてはとても嬉しいことでした。」
鳴海 「愚直に一つひとつ積み上げていこうと言うのがマイナビの大切な社風です。もともと弊社が持っていたそのDNAは、1973年の創業以来、社員・経営者の一人ひとりが積み上げてきたもの。それをここで自信をもってもう一度打ち出そう、と決断することができました。それには、ユーザーの方には親しみを持っていただきながら、社員に対しても親しみをもって自分たちのサービスを育てていくブランド意識を持ってほしい、という両面がありました。社長も当時の決断を“勇気のいる決断”と言葉にしています。」
新しいロゴを導入して成功したかなんて、すぐには分からない。答えは“やり切る強い意志”が握っている
Q. 少し時間軸を戻して、初めのロゴ変更にあたり、導入期の社内についても教えていただけますか?
鳴海 「お恥ずかしい話ですが、ロゴの使用にあたっての明確なガイドラインが無かったんです。弊社から出す制作物に関して、社名を入れなければならない、という意識さえ無かったかもしれません。入れてもいい、入れなくてもいいという自主性に任されていました。そんな中で、新しいロゴが生まれ、ガイドラインが作成されて…徹底的に世の中に表現し打ち出していこうという姿勢が強まりました。」
マッティン 「それでも導入期は大変だったかと。」
鳴海 「そうですね…そこは、育てていくという感覚だったように思います。大輪の花がすぐに咲かないのと同じように、まずは多くの種を蒔いて、地道に1株ずつ肥料をやり、成長を促す…。各部署、各支社に導入の説明をして、説明会の場にはご協力いただいている制作会社の方々にもお越しいただいて…ロゴ導入の進行を押し進めていきました。」
マッティン 「僕も各事業部の説明会には参加したことがありました。(これからこのロゴとDNAを)大切にしていきましょう、と話しがあったことを覚えています。」
鳴海 「とはいえ、実のところ心が折れていくわけです。導入当初は批判も浴びますし、新しいロゴが成功したかどうかは、すぐにはわからないです。やりきる強い意志が必要でした。リスキーブランドさんをはじめ、関係各位からバックアップを強くいただいて、やりきることができたなと思います。」
Q. これまで一緒に歩んできた、リスキーブランドの印象ってどんなものですか?
マッティン 「社名がリスキーだし、危ない会社じゃないかって思わなかったですか?(笑)」
鳴海 「たしかに(笑)。いえ、むしろあえてリスキーという名前をつける、自信を感じていました。田崎社長をリーダーに、皆さんのチームワークがよかった。マッティンさんはじめ個性あふれる社員の方がそろった構成もよかったですね。マネジメント層や、弊社のプロジェクトチーム、多くの社員の意見を吸い上げてカタチにしていかなければならない中で、マネジメント層の気持ちが分かる人、チームの立場も分かる人、マッティンさんがいて‥そんな中でバランス良くチームワークをとれていたので、安心していました。新しいことを始め、変化を起こすにあたって、自社のみの視点では、頓挫したり、方向性を見失いがちになることもあるかと思います。その中で、大きくバックアップしていただける厚みを感じました。」
マイナビの今後人々の日常の中へ、当たり前にある存在を目指していく。時代とともに、環境とともに、常によりよいカタチを創造し続ける。
Q. ここまで、2006年からの10年間を振り返っていただきました。
今後はどのようにお考えですか?
鳴海 「『日本全国に拠点を置き、リアルなネットワークを築いていく』というのが、今後の目標の一つになります。日本中の各地域の結びつきを、これまで以上に強めていきます。各地域に拠点を置き、リアルに、face to faceで、その地域の皆様とお顔をあわせられるネットワークを持つことでしか得られない情報を提供したいからです。
まずは人材情報サービスにおいて進めていきますが、そのカテゴリにとらわれず、新規事業への展開も考えています。マイナビを人々の日常の中へ、当たり前にある存在を目指していくこと。ロゴも2007年の導入の時から最善を目指して、少しずつマイナーチェンジをしています。」
マッティン 「マイナビロゴマークは、サービス・ロゴとして使用していた当時は、Waveの線に強弱があり、手描き感が強く出ていたり、マイナビの文字も当初はグレーだったり。コーポレート・ロゴに変更する際に、信用性や視認性を高めるためにWaveも太く力強くして、マイナビの文字もスミ100の黒色になりました。」
鳴海 「この改善に終わりはないように思います。時代とともに、環境とともに、常によりよいカタチであり続けることが大切だと。」
マッティン 「変わりますからね。たとえば人々の志向の変化によっても、広告が使われる場所も変わるし、そのためにデザインもマイナーチェンジする必要があったりする。今の時代に合うように、ブラッシュアップしていくことが大切。そうでないと置いていかれてしまう。今後もやっぱり何か課題は出てくるんじゃないかなと思うし、これでいいと安住するのでなく、その時を想定して、いろんな目で見ていくことが必要だと思います。」
鳴海 雅子(なるみまさこ)
株式会社 マイナビ 社長室 室長(*取材当時)
<プロフィール>
上智大文学部新聞学科卒。株式会社 毎日コミュニケーションズ(現:株式会社マイナビ)入社。「Mac Fan」「PCfan」など13の雑誌創刊プロモーション、「週刊将棋」など出版物の宣伝・販促を担当。
1997年、「毎日就職ナビ(現:マイナビ)」の前身「マイキャリア」創設メンバー。新社会人向け紙媒体「フレッシャーズ」を創刊。
2003年、働く女性のためのウェブサイト「escala cafe(エスカーラカフェ/現:マイナビウーマン」、と雑誌「escala(エスカーラ)」を同時に創刊。
2006年、全社の広報活動を新設。2007年に創設した女流将棋・最高峰棋戦「マイナビ女子オープン」、2008年から特別協賛をする男子プロゴルフツアー「マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント」(※石川遼選手がプロ転向後初優勝した大会)、2011年の社名変更をはじめ各種プロジェクトを担当。現在に至る。
<趣味・特技>
スキー、ゴルフ、モータースポーツ(サーキット走行が相当ご無沙汰な、なんちゃって国内A級ライセンス)。公園をぶらぶら。
【前編】「それは“己が何者か”を知ることから始まった。」は、こちらから。
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